招き猫先生の『ことちか日記』H27 5/25

piramiddo先週の西日本新聞の記事である。
長期に渡って連載されている、野矢 茂樹氏のコラム『哲学者のいる風景』の二日分を転記した。
あまりにも現在進めている「言語技術トレーニング」の意図するところと一致していたため、感激のあまりである。
ぜひご一読いただきたい。

 

 私が中学生だった頃と比べて、いまの国語の教科書はずいぶん変わった。はるかによくなっている。とはいえ、実際の教科書作りはいくつもの現実的な制約にしばられ、なかなかやりたいようにはできない。そこで、現実を無視して、私が作りたい教科書の姿を描いてみよう。
 嘗ての中学の国語の授業はひとことで言えば「名文鑑賞」だったように思う。りっぱな文学作品を読み、教師がそのすばらしさを解説する。もちろんそういう授業は必要だろう。だが私は、「文学」と「国語」は別立ての科目にすべきだと考えている。同時に、国語から道徳教育や情操教育といった側面も排除する。国語をあくまでも日本語を学ぶ科目、実用的な語学として位置づけたいのである。
 言葉を使うということは、いくつもの技術を身につけるということである。どんな技術が必要なのかをきちんと取り出して、それを教え、練習させなければいけない。現在の教科書は指導要領に従おうとしてあまりにも盛りだくさんになっている。そのため、授業で扱いきれないか、やっても通り一遍に終わってしまいかねない。しかし、それでは技術は身につかない。本当にだいじな技術を選び出して、反復練習させなければいけない。
 たとえば、過不足のない適切な内容を順序立てて述べる力を身につける。そのためには、名文を鑑賞させる必要はない。実用的な、しかしきちんとした文章を読ませ、手本とする。それと同時に、悪文も示して、どうしてそれが悪文なのかを見抜く練習もする。そしてその文章をよりよい文章に手直しさせる。それを何度も練習もする。
 あるいは、要約する練習というのはものすごく力がつくと私は考えているが、それも授業だけで一回熱かったからといってどうなるものでもない。
 そんな日本語の技術を反復練習するための教本。あ、これはもう、おとなにもやらせたいね。

 

 想像してみよう。理想的な国語の教え方を。現実離れした夢などと笑わないで、想像してみよう。
 いい文章を与えて、「さあ読みなさい」と言い、夏休みのことについて「さあ書きなさい」と言う。それだけでは国語教育にはならない。いま考えたいのは、実用的な日本語の力を育てる、語学としての国語だ。だから、たんに知識を教えるだけでなく、実際にいろんな文章を読み、自分でも書かなければいけない。だけど、やみくもに読んだり書いたりしても、日本語の力は身につかない。
 例えば、根拠の関係を把握する。そのことに焦点を当てて、繰り返し練習する。あるいは、接続表現を的確に使えるようにする。そんなふうに、何を学ばせたいのかを明確にして、学ぶことによる達成感をもてる科目にする。おそらくいま生徒たちは国語の授業で何を学べばよいのかよく分からず、それで、国語は勉強してもしなくてもおんなじだという感覚をもってしまっているのではないだろうか。
 言葉は、頭で分かっているだけでは意味がない。修得すべき技術を繰り返し練習する。そのとき教師は、壇上から教える者でなく、練習している生徒に寄り添うコーチでなければならない。実質のあるメニューのもとで、生徒一人ひとりの力を見きわめ、的確なアドバイスを与える。
教材は、教えたいポイントに合わせて書き下ろしたものがよい。例えば、要約の練習をさせる。最初はほぼ機械的なやり方で要約文が作れてしまう文章から始めて、だんだんレベルアップしていく。世の中に出まわっている文章はけっこう要約しにくいものだったりする。だから、いわば、海に出ていく前にプールで練習するのだ。子どもたちの力に即した、プール指導のような国語の授業。そして子どもたちを、やがて荒波へと送り出す。
 想像してみよう。こんな教育が実を結んだなら、きっと日本は変わる。

 

以上の文章であった。

 

野矢氏は「言語技術」のスタッフではないかと思えるほど、現在、吾輩が中学一年生の仲間とともに進めようとしていること、そのままなのである。

 

ただひとつ、注意点を挙げるとすれば、吾輩はこれまでの日本の国語教育(受験国語も含めて)を全否定しているわけではない。同様に、欧米型の言語技術いわゆるランゲージアーツを全肯定しているわけではない。グローバル、グローバルと流行ものに飛びつき、現在まで必死で進めてきた(今もなお、創意工夫・苦心惨憺の体で努力している)日本の国語教育を否定することで、自らが先進的かつ優れているかのように振る舞う軽薄なことはやりたくない。

 

吾輩が教えを乞うているつくば言語技術研究所の三森ゆりか先生は「日本の国語教育を否定するのではなく、それだけでは足りない」と言っているのである。これからの時代において、世界基準として「言語技術」の修得が必要であるからトレーニングをするだけなのである。
三森ゆりか先生の「言語技術の存在を知らず、そのトレーニングを行っていないことで、日本人が国際社会において軽んじられるとしたら、それは我慢できない」という言葉が吾輩は大好きなのである。

 

本日はここまで!